主婦が自己肯定感を高めて返り咲くキッカケ作り。

「嫌われる勇気」その20:人から嫌われるほど〇〇が自分のモノになる

嫌われる勇気の本当の意味

この記事は岸見一郎氏/古賀史健氏の著書「嫌われる勇気」について主婦目線で読み解くものです。

—最初からお読み頂くと内容がよりわかりやすいと思います
>「嫌われる勇気」レポート一覧

前回の記事で、誰からも嫌われないように生きるということは、自分の人生に嘘をつき通していくことだと知りました。他者に深入りすることなく「私は私。あなたはあなた。」という目で見ると、世の中はすっきりシンプルなものに映ることも、やっとわかりました。
「自分の人生は自分の思うように好きなように生きる」ことができれば、私たちから悩みがなくなり自由になれるということなのでしょうか?

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究極の自由とは何か

アドラーが提言する「すべての悩みは対人関係にある」という言葉が本当なら、課題の分離をして他者に対して「比べず、媚びず、怯えず、おごらず、飾らずetc」自然体な自分をさらけ出すことで、一切の悩みが消え去るということになります。

その先に見える世界は極めてシンプルであるっていうんですもの。本当に自由になれるんでしょうか?

それでもね。どうしても「誰に嫌われても平気だわ」とは思えない。たとえどんなに傍若無人に振る舞えたとしても、最低限、自分の近くにいる大切な人たちには嫌われたくないって思ってしまう。
ここを改善できない限り人は自由にはなれないってことでしょうか?

 

誰もが思う「誰からも嫌われたくない」という気持ちは、人にとって普遍的な欲求です。持っていて当たり前の感情です。

他者から嫌われたくないと思うこと。これは人間にとって、きわめて自然な欲望であり、衝動です。近代哲学の巨人、カントはそうした欲望のことを「傾向性」と呼びました。

そんな本能的で衝動的な欲望の「嫌われたくない」という感情に、心のおもむくままに従うとどうなるでしょう?

この感情の傾向性に逆らわず自然に任せると「嫌われたくないから〇〇する」「少しでも気に入ってもらえるように〇〇する」っていうように、他者を満足させるための行動をすることになります。これでは対人関係で支障が出ることは今までの記事で散々お伝えしてきました。

「傾向性」とは傾いたほうへどんどん流されていっちゃう習慣的な思考のことで、対義語は「理性」になります。

哲人は坂道を転がる石のように生きることが「自由」ではないと言い切っています。

石ころは無力です。いったん坂道を転がりはじめたら、重力や慣性といった自然法則が許すところまで、転がり続けます。
しかし、われわれは石ころではありません。傾向性に抗うことができる存在なのです。転がる自分を停止させ、坂道を登っていくことができるのです。

人から認められたくて、嫌われたくなくて、そのために坂道を転がり続け自分自身を摩耗させることは「自由」ではありません。どんどん摩耗してツルツルに丸くなった形が「本当の自分」なわけありません。

本当の自分をさらけ出せる状態を作るには、対人関係の悩みから解放されている必要があります。宇宙にただひとりで生きることは絶対に不可能な現実世界で、対人関係から解放されて「自由になる」ということは・・・

すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」と。

だから、「嫌われる勇気」なんですね。

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり自由になれないのです。

哲人は、わざわざ人から嫌われるような生き方や悪行を働けというのではなく、「他者から嫌われることを怖れるな」と言っているのです。

嫌われることを怖れるがために坂道を転がって自分自身を摩耗する生き方ではなくて、転がるのを自分の意志で停止させ、目の前の坂道を登っていくことが人にとっての「自由」だと言っているのです。

 

カードは自分が握っている

対人関係で悩むとき、多くの人は「関係が悪くなった原因」を深く追及します。「〇〇だから」「〇〇のせいで」という原因論で考えているうちは、関係修復のカードが”自分以外の場所”にあることになります。

それをアドラーの目的論に変換すると、解決のカードは自分が握っていることに気がつきます。

たとえば、お姑さんとの仲が悪くて悩んでいる嫁の場合。

お姑さんと上手くいかないのは優柔不断でどっちつかずの夫のせいだ!という「原因論」で考えると、関係修復のためには夫を何とかしなきゃいけなくなります。夫が変わらないかぎり、自分の状況も変えられないことになりますよね。解決カードは夫が握っていることになります。

だけど。
自分にとって、お姑さんと上手くいかない方が都合よいことがあるから、夫が悪いことにして言い訳している!という「目的論」で考えてみるとどうでしょう?目的論は”これからどうする”を変えることができる思考です。目的を「お姑さんと上手くいかない方が都合よい」から「お姑さんと上手くいった方がよい」に変えることもできるわけです。目的をどんなふうに変えるかは自分次第です。ほら、解決カードは自分が握っていますよね!

目的を変えていくには「課題の分離」も必要になります。

自分が「お姑さんと仲良くしたい」と思っても、お姑さんはどう思うかわかりません。嫁のことは一生受け入れられないかもしれません。お姑さんの課題に嫁は口出しできません。

だけど、お姑さんがどう思おうがどうでもいいんです。大切なのは「私がお姑さんと仲良くしたいから」っていう決心が先にあって行動することなんですね。

「これからはお姑さんと仲良くしよう」って決心して行動したところで、2人の関係は変わらないかもしれません。お姑さんの冷たい態度にビビって「やっぱり修復不可能だわ」って落ち込んでしまうかもしれません。

でもね、そこでおじけづいてるようでは「課題の分離」ができていない証拠です。お姑さんが良いように変わってくれることを期待して、言い換えれば人の気持ちを自分が操作しようとしている証拠なんです。

相手がどんな結果を出してこようが、更なる反撃をしかけてこようが関係ないんです。嫁の私からお姑さんに対して「私が勝手に仲良くしたいと思っているだけですよ」って働きかけを続ければいいだけなんです。それこそ、「自分が変わればいいだけ」なんですね。

相手の返してくる気持ちや言動を気にしないで「自分が変わる」ことだけに注目すると、あら不思議。

対人関係ってそんなに複雑じゃないように思えてきませんか?

 

ユーミ
ここで青年と哲人は3回目の対話を終了しました。アドラー心理学に飲み込まれていますか?

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「嫌われる勇気」その20:人から嫌われるほど〇〇が自分のモノになる by ユーミ

【嫌われる勇気】

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